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| 1963年上野駅、西郷さんの銅像前で。右が私です。 |
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1962年、16歳の夏に、横浜に住んでいた叔父の誘いもあって、横浜に就職しました。その時はまだイガグリ君の頭でした。
就職先は、神奈川区山内町にある中央卸売市場内の渋谷食品でした。住み込みで、朝5時半から仕事が始まり、夜まで仕事の続くこともしばしばでした。市場に働く若い労働者はみんなそんな状況でした。
休日に時々中学時代の同級生と東京上野で会って話し合うことが楽しい思い出でした。とにかくよく働いたものだというのが今の実感です。地方出身者ということと、言葉のなまり、さらに中卒という劣等感の克服に、東京の通信教育の文化学院に入学しました。が、労働の厳しさ、自分自身の勉強の遅れから、ついに途中で止めたことなども苦い思い出です。
その後、NKK(株)浅野ドックに就職しました。
社会との矛盾に目をむけたのは、当時東京新宿区にあった文理書院「人生手帳」緑の会の月刊誌を通じた交流がきっかけでした。横浜市内でもサークルがいくつか形成され、日産や中小企業で働く仲間、地方から出てきた者が多くいました。その中に民青同盟員や共産党員もいました。
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| 1968年夏、鎌倉で「海の平和祭」。下から2列目の左が私 |
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そんな環境の中で、18歳のとき、職場の青年サークルの仲間の訴えにこたえ、民青に、そして日本共産党に入党しました。動機は、職場の労働災害の多発から仲間の命を守りたい、低賃金の改善、米国のベトナム侵略戦争に反対していきたい、と思ったからです。
アメリカのベトナム侵略戦争、相次ぐ物価値上げ、一方的な日韓会談、「沖縄を返せ」、低い賃金、多発する労働災害。自衛隊の適格者名簿の作成準備などなど、上げればキリの無い政治反動との闘いは、私を含め青年を大きく成長させてくれました。
箱根のキャンプ、江ノ島の平和友好祭、千葉の成田空港反対の援農支援、神奈川県愛川町への援農支援、社共の東京で開催された何回かの1日共闘の集会デモ行進にも積極的に参加しました。
19歳でアサノドック支部の支部長になりました。上部機関のメンバーも、当時アサノには、そうそうたるメンバーがいるにもかかわらず、「19歳の青年で大丈夫か」との不安の声もはっきり聞こえてきましたが、ともかくがんばり抜いた記憶があります。
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